太田市の概要
太田市は、富士重工業(スバル)の企業城下町として知られ、北関東有数の工業都市となっており、富士重工業やその関連工場が点在しています。また、これらの工場で働く日系ブラジル人を始め、在日外国人が多く住み、外国人集住都市として知られています。
太田のあゆみ
太田の歴史は、はるか昔にまでさかのぼることができます。旧石器時代、ナウマンゾウの歯の化石が現在の富沢町で発掘、さらには金山丘陵の裾、現在の緑町にある小丸山西遺跡等から、形尖頭器・ナイフ形石器などの狩猟道具が出土していることから、ナウマンゾウやオオツノシカなどの獲物を追い求めながら移動生活をしていた当時の人々の姿が想像できます。4世紀から7世紀、それは古墳時代と呼ばれる時代、それまで人が住んでいなかった平坦部にも大勢の人々が移住し、各地に村をつくります。やがて強力な統率者を死後に葬った古墳が、市域でも約1,000基の古墳が造られました。中でも、天神山古墳(内ヶ島町)は東日本でも最大の規模をもつ巨大古墳といわれ、畿内大和政権と強く関わりのあった人物の墓と考えられてます。
奈良時代に入り、仏教が各地に普及すると、有力な首長の寺院が建設されます。7世紀末に建てられたと伝えられる寺井廃寺からは、大和の古代瓦が出土し、現在でも市指定重要文化財となっています。また、租税徴収のための戸籍が作られました。そして、北九州の要地を警備する防人としてたくさんの人々がかりだされ、後の万葉集にも故郷へ想いを寄せた歌が残されてるのは有名な話です。平安時代の初めには、大きな地震が発生し、地割れができるほどの被害が記録されています。また、浅間山の噴火で火山灰が多く降り積もるなど、当時は自然災害が非常に多い時代だったようです。そんな中、荒廃した水田の開発を進めた一人、源義重は田畑の開発に注力し、ついには新田荘の下司職に任命、現在の新田郡、太田市西部で薗田御厨や寮米保・大倉保等が営まれました。
そして時代は戦国時代、当時有力大名である越後の上杉謙信や、甲斐の武田信玄、相模の北条氏康などの領国経営に狭まれ、保身のための行動を余儀なくされた金山城城主の成繁は1566年までは上杉方、以降は北条方として行動し、仲介の役目を果たします。精力的に行動にもかかわらず、武田信玄、上杉謙信が没すると、北条氏の圧力を全面的に受け、軍門に下り、金山城はついに北条氏の支配下に置かれますが、北条氏が豊臣秀吉によって滅ぼされると金山城も廃城となってしまいます。
江戸時代に入り、日光例弊使街道の宿場町として、さらには地方小商業のまちとして発達し、経済的・行政的にも中心地として発展します。また、金山は松茸の産地としても知られるようになり、1629年に館林藩主榊原忠次が幕府に最初に献上したと伝えられており、生産数は、多い年で3,000本あったと伝えられています。
明治時代に入り、宿場制度が廃止、人口2,500人の小さな町になってしまいます。明治22年には町制が施行され、明治30年には太田中学校(現太田高校)が開校し、同42年には東武鉄道が開通するなど着実な発展を遂げ大正時代に入ります。大正時代に入ると、日本初の民間飛行機産業が始まり、後の軍需産業の発展と共に飛躍的な発展を遂げます。日本の航空機産業の一翼を担う工業都市への発展した太田市、戦後にはこの航空機産業で培った技術を繊維産業や自動車産業などに活かし、それら平和産業を中核として再出発を遂げ、北関東を代表する工業都市として成長を遂げます。さらには首都圏市街地開発区域の指定に基づいた昭和38年、土地区画整理事業、幹線道路網整備などの都市基盤の整備も行われ、工業団地の造成、工業用水道の敷設など産業基盤の整備もはじまり、生活環境の整備が進みました。また、市街化調整、新用途地域の指定、計画的な市街地の整備が進み、群馬県東毛地区の中核都市として今もなお発展を続けています。
太田の名前の由来
市名の由来は、宿場町時代の「太田宿(おおたじゅく)」にちなんで付けられたといわれています。
 |
 |
 |
 |
| 太田の歴史についてもっと詳しく知りたい人はこちら↓ |
東毛歴史資料館 |
| 住所: |
〒370-0426
群馬県太田市世良田町3113-9 [地図を見る] |
| 電話番号: |
0276-52-2215 |
| 開館時間: |
9:30〜17:00(入館は16:30まで) |
| 休館日: |
月曜日・祝日の翌日 毎月最後の週の木曜日 年末・年始(12月27日から翌年1月5日まで) |
| 入館料: |
一般200円、学生(高校生以上)100円、児童・生徒50円 |
|
 |
 |
 |
 |
|
 |
|